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健康(Sprit)〜無意識と昔話

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ユングの昔話研究意識と無意識元型(archetype)母親離れオールドワイズマン(老賢人)
アニマアニムスシャドウトリックスターセルフ

ユングの昔話研究

スイスの分析心理学者ユング

スイスの分析心理学者であるユングの研究所では昔話の研究が盛んに行われています。 ユング派の昔話に関する考え方を紹介して行きましょう。
子供の事ドキドキして聞いた懐かしいあの「昔話」を通じて人間の生き方を考え、心の内的な成熟過程を見つめるのも興味深いものですね。 ある大学で「自分の人格形成に強い影響を与えた書物はどんなものがありますか?」と聞いてみたところ「昔話」をあげる人が意外に多くいたそうです。 昔話は子供の頃に何度も語り聞いたものですが、意外な事に大人になっても心の中に生き続け、その人の人生に少なからず影響を及ぼしていたのかも知れません。
昔話のルーツを辿ってみると、既にキリスト前3000年紀にバビロニアとエジプトにメルヘンが存在し、2000年紀にはインドと中国でメルヘンが成立しついでイスラエルとギリシャにメルヘンがあったという証拠があるようです。17〜18世紀までは昔話は子供に対してのみならず大人に対しても語られたものであるとも言います。

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意識と無意識

人間は自分の行動を頭で考えて「意識」する事が出来ますし、多くの行動や考えなどは意識的統制に従っています。 一方、心の奥底には自分では意識しえない「無意識」という感覚の存在があり、それは頭で考えた意識ではコントロール出来ないものであります。
人間は頭を使って、意識を磨き上げる事によって、人類の文明を発展、進歩させてきました。 しかし、意識が無意識からあまりにも切り離されたものとなる時、生命力を失ったものとなってしまいます。
私達は「太陽」について、「雨」について、あまりにも多くの『知識』を得た為に「太陽そのもの」「雨そのもの」を体験する事が出来なくなってしまっているのです。 この事を印象派の画家モネは次のように表現しています。「もし、私が盲目のまま生まれ、突然目が見えるようになったら、そうすれば目に映るものが何であるかを知る事無く絵が描きだせるだろうに!」
モネが嘆いた様に、近代人はあまりにも(頭で考え過ぎて)多くを知りすぎた為に何事かをそのまま体験する(感じる)事が困難になってしまっているのです。
今、私達に必要な事は、意識の世界(頭で考える世界)から無意識の(体で感じる直感の世界)へと還り、その間に望ましい関係を作り上げる事ではないでしょうか? 無意識の世界に足を踏み入れる1つの手段として昔話が考えられるのです。

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元型(archetype)

ユングは世界中の昔話や神話に共通して、典型的なイメージが存在する事に気がつきました。
そしてそれは、彼が心理療法に専念している間に患者から得られる夢や妄想などの内容にも共通して見られる事に気付いたのです。 そこで彼は無意識のさらに深層は人類に共通の普遍性を持つのではないかと考え、そこに1つの元型(archetype)の存在を仮定したのです。
つまり、人類に普遍的な集合無意識のある側面に1つの人格を与えて、理解しやすい形にしたのです。 ユングが提唱した元型にはグレートマザー・オールドワイズマン・アニマ・アニムス・シャドウ・トリックスター・セルフ 等があげられます。

グレートマザー

無意識下の全てを育てる偉大な母親像。 自分を生み育ててくれる良い母親像と、自分を飲みこんでしまう 過保護な悪い母親像の二つの働きがあります。

オールドワイズマン

無意識下にある様々な可能性を持ち合わせた偉大な父親の像。 若さ、力、理性などを持ち合わせた完成した人間です。

アニマ

男性の心に潜在する、心の内の無意識の女性的な働き。 情緒性やムード、恋愛感情などを表します。

アニムス

女性の心に潜在する、心の内の無意識の男性的な働き。 論理的な思考や合理性、決断力などを表します。

シャドウ

個人の意識が隠したいと思う事々、否定したい性格、劣等感などが 無意識の中に潜んだもの。

トリックスター

いたずら者、ペテン師ですが、硬直化した価値観を壊して人々に笑いと 創造をもたらす者。低俗なトリックスターは破壊のみをもたらし、 高尚なトリックスターは破壊の後に新しい秩序をもたらします。

セルフ

無意識を含める意識全体の自己。人生を通して成長していく自己実現の姿。 様々な心理要素をすべて含んだ、人の心の全体像とも言えます。

このように考えると、ある個人が何らかの元型的な体験をした時、その経験を出来る限り直接的に伝えようとして出来た話が昔話の始まりではないかと考えられるのです。
そしてそれが元型的であると言う事は、人間の心の普遍性に繋がるものとして、多くの人に受け入れられ時代を超えて存在し続けるのです。
ユングのこの説によると時代や文化の差を越えて類似のテーマや内容を持つ昔話が独立に存在・発生する事も上手く説明する事が出来るのです。
そして、同じ元型的な表象にしても、その時代や文化の影響を受けて、各々の特徴を有していたのです。

「神話」・「伝説」・「昔話」

ちょっとここで、「神話」・「伝説」と「昔話」の関係を説明しておきましょう。
これらはどれも(無意識の)元型の心的過程の表出である事には変わりありませんが、趣に違いが認められます。
「神話」の場合は元型的体験が一民族、一国家のアイデンティティの確立に関係するのに対し、「伝説」は元型的体験が特定の人物や場所と結び付けられて語られているのです。 この為、昔話と比べると意識的、文化的な彫琢が加えられているのです。
一方、昔話は特定の場所や時間からの思い切った分離があります。 (例:昔々ある所に・・・)これは読み手を「顕在意識の現実の世界」から、「潜在意識の奥の元型の世界」へと一挙に誘い込む働きがあるようです。
神話や伝説は時と共にその特定の場所や国、文化などとの結びつきの意味を失って昔話へと変化して行く事もあると考えられます。
このような視点から昔話を見る時、物語の中に元型の存在を明らかにして行く事になります。 その際大切な事は、元型を理解する際に(頭を使った)知的な理解、つまり「考える」だけでは不十分だと言う事です。
多くの昔話は自然現象との類似性が高いものですが、単に自然現象を説明する為の物理学なのではなく、自然現象を体験した時の人間の心の中に「感じる」 物も大切なのです。
それでは早速、昔話の中の元型を感じとってみましょう。

グレートマザー(太母)

昔話に登場する女性像には「慈悲深く優しい母親像」と、「恐ろしい魔女や意地悪な継母(ままはは)の姿など」をとるものと二つの傾向があります。
恐ろしい母親像は、わが国では山姥(やまんば)がその典型でしょう。 母こそは生命の源泉であり、植物は春に土から生まれ育ち、冬になると枯れて土に還る事を考えると、土こそは「死と再生」の現象が行われている母胎であると感じられます。
先史時代に崇拝の対象となった「地母神」の像が世界中から発掘されていて、これらの像は女性器が強調され母性の「生み出す」機能が著しく重視されているのです。
しかしこれはまた、死と再生の場となる土の神秘を反映して、死者を受け入れる死の女神でもありました。 つまり地母神は「生の神」であると同時に「死の神」なのです。
日本神話におけるイザナミは、日本の国を全て生み出した偉大なる母の神である一方、黄泉の国を統治する死の神でもあるのです。 このように母性はその根源において、死と生の両面性を持っているのです。
人類に普遍的にこのような表象が存在する事から、ユングはそれを「母なるものの元型」、つまり人間の個々の母親と区別し、人類に普遍的なイメージの 源泉として「太母(グレートマザー)」と名付けたのです。



グレートマザー
善母悪母
生 実らせる 育てる 支える 抱含する つかむ 誘い込む 呑み込む 死

生と死は表裏一体で繋がっているものです。 わが子を立派に成長させようと世話し、支え、育てていきますが、それが行き過ぎると今度は逆にその自立を妨げ才能を殺してしまう事にもなるのです。

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母親離れ

グリム童話の傑作として「ヘンゼルとグレーテル」と言う昔話があります。これはわが国の有名な物語「安寿と厨子王」と多くの点で対比される 要素を持っています。
共に主人公は幼い兄妹もしくは姉弟で、彼らはまだ男性とも女性とも分離して確立される以前の自我の状態を示すものと考えられます。 そして主題は子供の母親からの分離、独立を扱っているのです。
ここでは「ヘンゼルとグレーテル」の物語を追ってみましょう!

大きな森の入り口に1人の貧乏な木こりと、そのおかみさん(継母)、それに二人の子供達が暮らしていました。
男の子はヘンゼルと言い女の子はグレーテルと言いました。
ある時大飢饉がやってきます。ただでさえ貧しい所に大飢饉がやってきて、残りの食料も後わずかになってきました。そんなある日、母親は子供達を森に棄(す)てる事を父親に提案します。
「自分らの食べるものも無くなっちまったのに、あの子達をどうやって養って行けるかね?あんた、こうしたらどう!明日、森の奥に連れて行っておいてけぼりにするんだよ。子供達には帰り道なんて分かりっこ無いんだから、いいとこ厄介払いってわけよ。」
こう継母が親父さんに言っている所を子供達は聞いてしまいました。 「何だとお前、そいつあごめんだ。てめえの子を森ん中においてけぼりにするなんて!」
「ま、あんたも馬鹿だ事。それじゃあ四人とも飢え死にってわけよ。さっさと棺おけの板でも削っておくと良いさ。」 そうやって、おかみさんがたて続けに責め立てるので、木こりもついに承知してしまいました。
「けど、やっぱりあいつらがかわいそうでなあ〜」と言いながら・・・。
グレーテルは泣きながらヘンゼルに言いました「私達もうおしまいね。」 「しいっ、グレーテル、心配するんじゃないよ、僕が何とかしてやるから。」
ヘンゼルはその夜、両親が寝静まった後、こっそり家の外に抜け出し、月明かりに反射して光る白い小石をポケットに入るだけ詰め込みました。 そして次の日、両親と森の中を歩いている時、所々でこっそりポケットから白い小石を目印として地面に落として行ったのでした。
森の奥深くに入った後、両親は子供達を置き去りにして帰ってしまいました。 でも、夜になり月明かりが地面を照らし出すと、ヘンゼルが撒いた白い小石が光輝いて家路までのルートを教えてくれたのでした。
そして家に帰って、いく日もたたぬある晩、継母はまた親父さんにこう言っているのを子供達は聞きつけたのです。
「子供はやっぱり手放さなくちゃね。明日、もっとずっと森の奥まで連れ込んで、二度と帰り道が分からないようにしてさ、そうしなくっちゃ、 あたしたち、お陀仏に決まってるんだから!」。
木こりの男は辛くてやり切れませんでした。 「最後の一かけのパンだって、子供達と分け合った方がよっぽどましなのに・・・。」しかしおかみさんは男の言う事には耳を貸さず、なじって、 やいのやいの責めたて、結局、今度もそうしない分けには行かなくなってしまいました。
この時も前回と同じようにヘンゼルは小石を取りに外に出ようとしました。しかし、今回は継母が戸口に鍵をかけておいたので、 外へは出られませんでした。
ヘンゼルはそれでもグレーテルをなぐさめて言いました。 「泣くんじゃないよグレーテル、安心してお休みってば、神様がきっと僕達を助けてくださるんだから。」
翌日、ヘンゼルは小石の代わりに親に貰ったパンをポケットの中で、小さくちぎっては小石の代わりに森の地面に所々撒いていきました。 森の奥深くに入った後、またもや両親は子供達を置き去りにして帰ってしまいました。 月が出て明るくなった時、ヘンゼルは目印を探して歩き出しましたが、パンくずは1つも見つかりませんでした。 森の鳥達がみんなついばんでしまっていたのです。

ユングは鳥が「魂、精神」などを表す事を良く指摘していました。
自由に空を飛ぶ「鳥」は「突然に閃く考え」や「思考の流れ」、「空想」などとも結びつくのです。
グレートマザーは無意識内に存在するものとして昔話の中ではしばしば、小鳥と結び付いています。
グリム童話の「ヨリンデとヨリンゲル」という物語においては魔法使いのばあさんは娘を小鳥に変えて、籠に入れて飼っていますが何と、七千羽も飼っていますし、日本の「安寿と厨子王」でも母親は盲目になって、わが子の事をしのびつつ、雀(鳥)を追っていたのでした。
ヘンゼルとグレーテルも小鳥達のせいで道を失ってしまい、ますます森に深入りしていきます。
昔話の中に出てくる「森」や「海」は深い潜在意識の世界を象徴していると考えられます。
深い森の中や海の底へ入って行く事は日常の顕在意識の世界から無意識の潜在意識の世界への移行を象徴しているのです。 無意識の世界に奥深く分け入った主人公達はそこで色々なものに出会う事になります。
「ヘンゼルとグレーテル」ではどうだったのでしょうか?

ヘンゼルとグレーテルは森の中をさまよって三日目のお昼頃、綺麗な、雪のように真っ白い小鳥が木の枝にとまっているのを見つけました。 ヘンゼルとグレーテルお菓子の家 その小鳥はパタパタと羽ばたいて飛んで行き、その後について行くとお菓子の家を発見するのでした。
このちっちゃな家はパンで出来ていて、屋根はお菓子なのでした。窓はキラキラしたお砂糖で出来ています。
ヘンゼルとグレーテルは夢中になってポリポリ家をかじりました。
すると家の中から優しい声のお婆さんが出てきました「誰だい、家をかじるのは?
おやまあ、いい子ちゃん達、誰に案内してもらったの? お入んなさいってば、入っておやすみなさいって」。 うわべは優しそうにしているものの、実は子供達を待ち伏せしている魔女で、罠にかかってパンの家におびき寄せられた子供達を殺して、 煮て、食ってしまうのでした。

継母のイメージは否定的ではあっても、まだ人間的な感じを残していましたが、 次に現れるお婆さん(人食い魔女)はより普遍的な否定的母性像を 示しています。
魔女の用意した甘くて豊富なお菓子は母親の過保護を連想させます。 そして過保護は子供達の自立を妨げるのです。
ここでヘンゼルとグレーテルは極端な拒絶(森に捨てられる)と過保護(甘いお菓子の家)を体験しています。
突き詰めると、「妨げる」と言う意味において、この拒絶も過保護も同種の意味合いが伺われるのです。
ちょっと話がずれますが、学校恐怖症の子供や両親の典型的なケースを見てみましょう。 お母さんは子供の事に一生懸命で、子供の為ならば、それこそお菓子の家でも作りかねないぐらい何でもしてやろうとします。
母親の強力な態度が家中を圧する程であるのに対して、(その故に)父親は弱く母親の言うなりに行動しています。 そして、この父親の弱さをカバーする為に、母親は更に父親の役割を背負い込むようになります。
こうなってくると人間的な母親の役割が手薄になってしまい、優しく接するとか子供の気持ちを察するなどと言う事が出来なくなってしまうのです。
このような家庭の子供は「過保護」を体験する一方、人間的接触にかけるという点で強い「拒否」を体験しているのです。 物質的な過保護の裏には、しばしば人間的愛情の不足が隠れているのです。
多くの母親が「この子と一緒に死にたい」と訴え、そしてまた実に多くの母親が「子供を良くする為に」「子供の為に」どこか良い施設に預けたいと 言い出すのです。 極端な一体感かあるいは全く突き放すかなのです。

 

あくる朝早く、子供達が目覚めるより先に婆さんは起きだし、しなびた手で、ヘンゼルをぐっと捕らえ、小さな納屋へ引っ張っていって、 格子戸を立てて閉じ込めてしまいました。
続いて婆さんはグレーテルの所へ行って言いました「起きるんだよ、怠け者め!水を汲みに行って兄さんに何かうまいものを作っておやり。 これから太らせて、油がのったら食ってやるんだから」。グレーテルは泣く泣く魔女の言いなりになっていました。 魔女は一ヶ月位たった頃、「そろそろお前達を料理して食ってやる!」と言い出します。 「そうだ、先にパンを焼こう!」そう言うと哀れなグレーテルを焼きがまの方へ突き飛ばしました。釜からは炎がチョロチョロ舌をのぞかせています。 「中へもぐり込むんだよ、そしてパンを入れても良いか火加減を確かめとくれ」 魔女は、グレーテルが入ったら釜戸の蓋を閉め、中で丸焼きにして食べてしまおうというつもりでした。
ヘンゼルとグレーテル魔女を釜へ押し込む そのたくらみに気付いたグレーテルはこう言いました。 「どうやって入ったら良いのか分からないわ。どうやって中に入るんでしょう?」 「まぬけのトンチキめ!、ごらんよ、あたしだって入れるくらいだ。」 魔女はそう言いながら焼きがまの中に首を突っ込みました。 そのとたんグレーテルが『ドン!』と魔女を一突きして釜の奥へ押し込むと、鉄の蓋を閉めてかんぬきをかけてしまいました。 魔女は吼えだし、釜の中で焼け死んでしまいました。

子供は生まれてから母の保護を受けて育ってきますが、その間に母との接触を通じて母なるものの元型についての体験を持ちます。
つまり、それは子供の全てを受け入れ、全てを与えてくれる母の像です。 しかし、子供は成長するに伴って、その母なるものの否定的側面(自立を阻む力)を認識し、それと分離しなくてはなりません。
こうして自我の確立の過程において成長の一段階としての母親殺しの主題が生じてくるのです。
これがヘンゼルとグレーテルでの魔女退治なのです。 もちろん、これは心の内界において行われる事で、実際の母親に向けられるものではありません。

グレーテルは一目散にヘンゼルの所へ駆けつけ納屋を開け大声で喜びあいました。
二人はそのまま家の中に入っていくと、そこらじゅうに真珠や宝石の入った箱がありました。 二人はポケットに詰め込めるだけ詰め込んで、森から抜け出そうと歩きだします。
数時間も歩くと大きな川に出ました。 グレーテルはそこに泳いでいた、白い鴨に頼んで川を渡してもらいます。 鴨の背中に乗る時、ヘンゼルが「一緒に乗ろう」と言うのに対し、グレーテルは「鴨さんには重過ぎるでしょ、 代わりばんこに運んでもらわなくっちゃ」と言いヘンゼルに先を譲りました。

魔女の家に見出す宝石や、川で出会う「白い鴨」は母性が肯定的な面へと変容された事を示すものでしょうか。
そして小鳥達(鳥)によって深い森(潜在意識の世界)に迷い込んだのとは対照的に今度は白い鴨(鳥)によって森から家(現実世界・顕在意識)に 導かれるのでした。

ヘンゼルとグレーテル我家へ帰るそのまま暫く歩いて行くと、見覚えのある我が家が見えてきたのです。 二人は家に駆け込み父さんに抱きつきました。 きこりの父さんは子供達を森に捨ててから一時も楽しい思いをした事はありませんでした。 おかみさんはもう既に死んでしまっていたのです。 その後はヘンゼルとグレーテルが持ち帰った宝石で、一家はそれはそれは楽しく暮らしたとさ。

彼らが家に帰ったとき、おかみさんが既に死んでいたと言う事実は、「母親殺し(自立)」と言う側面において魔女との同一性を暗示しています。
継母と言う姿によって示された、否定的な母性像(自立を阻む力)はこの物語の中で種々の変遷を遂げ、最終的に死んでいくのです。
この間に前半では全てを兄に頼っていたグレーテルの態度が、後半には全く変わり、女らしい配慮と強さを持つ人格へと変化しているのでした。
自立を阻む力を克服する事で、自我の確立と自立と言う成長を遂げたのでした。

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オールドワイズマン(老賢人)

老賢人とは、無意識下にある父親の像を言います。 母なるものは全てを包み込み、養い育て、一体化する機能を持っています。
これに対して父なる者は物事を切断、分離する機能を持っています。 善と悪、光と闇、親と子などに世界を分化し秩序をもたらすのです。
母なるものが肯定と否定の両面を持ったように、父なるものも両面性を持っています。 その例外を許さない厳しさは過酷なものとなる時、命あるものを切り捨てる否定性に繋がっていくのです。
母なるものの、全ての物を区別する事無く包み込む機能と、父なるものの善悪などを区別する機能との間に適切なバランスが保たれてこそ、 人間の生活が円滑に行われるのです。
グリム童話「黄金の鳥」は父なるものとして王の働きが見事に描きだされています。

王は城のうちに庭を持ち、そこには黄金のリンゴの実がなる木が生えています。
リンゴの実の数はチェックされていましたが、ある日、1つ減っている事が分かると王は三人の息子達に順番に見張るように命令したのでした。

王の所有している黄金のリンゴはおそらく王権の象徴でしょう。あるいはそれは太陽と結びつけて考える事もできるかも知れません。
太陽がこの世を照らす唯一のものであるごとく、王はこの世の全ての事を明らかにする。その上で彼は全てが規律正しくある事を期待する (リンゴの数をチェックする)のです。
しかし、その後、リンゴの実は毎晩1つずつ盗まれるのでした。 これは規範に対する挑戦を意味しています。
その規律が上手く行っていないと知ると、それを正さなくてはなりません。 その為にこの物語では、見張り役を息子達に言いつけるのです。

ところが、第一の息子も第二の息子も見張りの途中で眠ってしまい、期待に応える事が出来ません。そこで主人公の第三番目の王子が登場する事になるのですが、父親は元々この第三の息子をそれ程信用していなかったのです。
しかし、三番目の息子は眠さに打ち克って犯人である黄金の鳥を見つけ、矢を射かけて、一枚の羽を得るのです。
王様が御意見番達に相談すると、「この羽は王国全体よりもさらに高価でございましょう」と言うのでありました。 これは王が大切にしている黄金のリンゴよりも遥かに価値のあるものだったのです。

王の支配する「国」を、個人の心の中に存在する「意識」の領域とみなすならば、この事は、無意識の領域(黄金の鳥の世界)に意識界(国)の 価値を遥かに超える物(黄金の羽)が存在する事を意味していると捉える事も出来るのです。
ここで言う黄金の羽とは無意識界の片鱗なのです。
この昔話の類話「白はと」では一番末の子供は脳みそが足りないと言う評判で「ばかさま」と名が付いていたとさえ言われています。
最も劣等な者が最高のものに繋がるという逆説は、昔話のお得意テーマです。
体制の改変を行いうる者は、その旧体制から見る限り愚か者に見えるものです。
これを個人の事と見るならば、自分にとって不得意な事が、自分の人格の成長、向上の為に最も役に立つと言う事を示しているとも考えられるのです。

更に王様は言います「一枚ぽっちでは何の意味もないぞ!是非ともその鳥を丸々手に入れたいものじゃ」。
こうして、王の命を受け、息子達は黄金の鳥を求めて順番に旅立つ事になります。
旅の途中、物を言う狐が現れ、各々の王子に忠告を与えて来ます。 しかし、第一番目の王子は狐の忠告など全く聞き入れようとせず、危険な道を選んでしまい何時まで経っても帰ってきません。
そこで今度は第二番目の王子が旅に出たのでが全く同じ結果でした。 その後二人の兄はありとあらゆる悪い事に手を染める事になり、有り金も残らず使ってしまうのでした。
しかし三番目の王子は狐の忠告を素直に受け入れ、以後の旅で欠くことの出来ない狐の援助を獲得するのです。
最初は狐の忠告を素直に聞き入れていたこの三番目の王子も途中で何度か狐の忠告を破り、人間的な判断によって誤った選択を繰り返し困難な 状況に遭遇して行きます。
大金をはたいて首吊りにされそうになっていた二人の兄を救い出したのですが、裏切りにあい、逆に兄達に殺されそうになったりもするのでした。
しかし最後には再び狐の忠告に従って、黄金の城の王女を得たのでした。

この黄金の鳥を求める旅路は無意識界への旅を表しています。 ここで、「動物の声」というのは無意識領域からの直感・閃きを表しているのです。
人間が頭で色々と考えて行動すると結局は上手く行かず、困難にぶつかってしまいます。素直にその声(直感や閃き)に従う事が人生の荒波を楽に 上手くやり過ごして行く秘訣だったと言う訳です。
「怠け者」や「のろま」が動物の声を聞いて成功すると言う昔話は沢山あります。 日本の「みず木の言葉」と言う話では主人公は「怠け者」で、柿を食べたくなったけれど、木に登るのが面倒くさいので、柿の木の下で仰向けになって 口をあけて寝ていました。こうしている時、彼は烏が二羽話し合っているのを聞き、それが元で長者になるというのです。
ここで大切な事は「烏の話し声」と言うのが普通の人の耳には入らず、怠け者のみに聞こえた、と言う事です。
常識の世界に忙しく働いている人は、「天の声」、「潜在意識からの声(閃き・直感)」を聞く事が出来ないのです。 普通の人は仕事に熱心で忙しいと言う口実の元に、自分の内面の声を聞く事を拒否してしまっているのです(仕事への逃避)。
社会の規範としての仕事を与え、もしそれが出来ない時には死を与えようとする程の厳しさを表しているのがこの物語に出てくる王、 つまり父なるものの元型の顕現なのです。
人間が大人になる時には1つの通過儀礼(試練)が必要であると未開人は考えました。 大人になるためには課せられた試練(つまり社会の規範としての仕事)に耐えなければならなかったのです。
現在の日本では父性原理の遂行者としての父親像が希薄になって来ている事にあいまって、若者達が必要な通過儀礼を受けていない為に、 精神的に大人になる事が困難になって来ているのではないでしょうか。

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アニマ

ユングは、男性の夢を分析しながら、夢の中に典型的な未知の女性が現れる事の深い意義に気付きました。
男性の夢に出てくる女性像を、その男性の魂の心像であると考えて、その像の元型となる物を仮定し、それをアニマ(男性の心の中の女性)と 名付けたのです。 
アニマは男性の心の中にある全ての女性的心理傾向が人格化されたもので、自分の母親像から発展させてくるものなのです。 ここで「忠臣ヨハネス」と言う昔話を見てみましょう。

年老いた王が病になり「どうやらわしも死の床に着いたというわけだな」と思います。 そして臨終の床で忠臣ヨハネスに「お前が、何事によらず、息子の知らない事を教えてやって、父親代わりになってくれると約束してくれぬと、 わしも安じて目をつぶる事が出来ないのだがな」と言います。
ヨハネスはこれに答えて「私の命に変えても忠実にお仕え致します」と誓い王を安心させます。
すると王はこう言いました「王子には城の中の何処を見せても良いが、長廊下のどんづまりの部屋だけは見せてはならないぞ、その部屋には黄金葺 (こがねぶ)きの館の王女の絵姿がしまってあり、それを王子が一目でも見ると、王女に惚れ込んでしまうだろうから」。

死にゆく王の息子に対する期待にはジレンマがあったのです。
王は、意識的には息子にも自分と同じように規範と統合性を持って「禁」を守り抜き、 王国現状のまま永続させる事を願っていますが、一方で無意識的には息子が「禁」を破って自分では成しえなかった、黄金葺きの館の王女を自分の国へ 迎え入れる事を期待しているとも取れるのです。

王の死後、喪が明けると共にヨハネスは王子にお城の中を案内して見せます。
当然の事ながら、王子は禁止された部屋に入りたいと言い出します。
ヨハネスは留めようとしますが、ついに押し切られてしまいます。 ヨハネスは扉を開けますが、それでも王女の絵姿を身をもって隠そうとします。
しかし王子はつま先立ちしてヨハネスの肩越しに絵を見てしまったのです。
その乙女の絵姿を見たとたん、王は失神して倒れ正気を取り戻すや否やヨハネスに向かって、彼女に対する激しい恋心を打ち明けるのでした。

全ての男性は心の奥の一室に一人の乙女の絵姿をもっていると言えるのかも知れません。
そして、その絵姿に似た女性に会うと心を揺さぶられ、 それを追い求めようとするのです。
男性がこの現代社会を生きて行く為には男性として社会的にふさわしい役割・常識を身につけなくてはなりません。 しかし、それは社会から期待されている「男は男らしくこうあるべき」という概念に合わせる為に、本来の自分をかくした仮面(ペルソナ)に 過ぎないのです。
社会で立派な男性として認められる為には安易に女々しく感情あらわにする事は出来ないのです(男性は安易に泣いたり出来ないですね)。
このように、社会の中で男性としての役割を遂行して行く(仮面をかぶっている)うちに、多くの感情が心の奥に閉じ込められてしまいます。 これがつもりにつもって1つの人格像を形成する程になって来ます。
これが秘密の部屋に閉じ込められた王女の絵姿さながらに、 女性像として形象化・人格化されるのです。
これは女性の場合も同じでユングは女性の中の男性を「アニムス」と名付けました。
社会に適応しようとするあまりペルソナが強くなりすぎてアニマをあまりにも抑圧している人は、例え社会に上手く適応出来たとしても、 自分の存在の根本が危ういと感じるようになるかも知れません。
かといってあまりにアニマに心引かれ容易にペルソナを捨ててしまい裸の真実に 直面する事は命を失う(社会から失脚する)危険性をはらんでいるのです。

忠臣ヨハネスは王子の希望を満たす為1つの方法を思いつきます。 それは王女が黄金を好む事を利用して、自分達が黄金細工売りの商人に変装して近づき、王女を船で盗み去ると言う計画でした。
この計画は上手く成功し、王女を船の上に連れ出す事が出来ました。 自分の国に帰る途中、船の上でヨハネスは烏の話を聞いてしまいます。 船が国について上陸してから王子には3つの危険が待ち構えていると言うのです。
それを避けるには一つ目は王様の乗ろうとする素晴らしい栗毛の馬を撃ち殺す事であり、二つ目は花婿用に用意された立派な下着を火の中に 放り込んで燃やしてしまう事であり、三つ目は花嫁の乳房から三滴の血を吸い取りそれを吐き出す事だと言うのです。
これらをやり遂げないと王子や花嫁が死んでしまうと言うのでした。 更にひどい事に、この内容を知った者がその内容を誰かに打ち明ければその者は、とたんに全身石になってしまうと言うのです。
その内容をたまたま聞いてしまったヨハネスは悩まされる事になります。 しかし、ヨハネスは結局命を捨てても王子を救おうと決意します。そして1〜3つの事をやり遂げるのでした。
でも、その理由はしゃべれませんから、王子は何の為にヨハネスがこんなひどい事をするのか理解出来ず、怒りに任せ、死刑を言い渡してしまいます。 どうせ死ぬのならと、死刑執行前に今までやって来た事の弁明をし、ヨハネスは石になってしまうのです。
それを知った王子はヨハネスを疑った事を以後ずっと後悔するのでした。 王子は子供が出来て暫くした頃、子供の首をはねその血をヨハネスの石に塗りさえすれば息を吹き返す事を知り、その通り実行しヨハネスを 生き返らせることに成功します。
すると今度は生き返ったヨハネスが子供を生き返らせてくれるのでした。 こうして王子と妃、子供とヨハネスは世を終わるまで幸せに暮らしたのでした。

アニマは男性を未知の世界へと誘います。 実際、多くの男性は女性によって創造的な活動への衝動を与えられます。
しかしそれは危険な道でもあるのです。 女性の誘惑によって身を破滅させた男性はいくらでもいます。
しかしこれは、現実の女性による誘惑ばかりを意味しているのではありません。
心の内界に存在するアニマが優位になると、その素晴らしさに魅せられ、今まで大切にしてきた事は無に等しいとさえ感じられてゆきます。
その為に地位も財産も名誉も全て不要であるなどと思うとき、男性はしばしば社会から失脚してしまうのです。

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アニムス

グリム童話「つぐみの髯の王様」はユングの言うアニムス(女性の心の中の男性)を見事に描き出しています。

王様と一人娘がいました。 その娘は桁外れに綺麗でしたが、ひどく気位が高くて、いばりんぼでした。 その為どんな求婚者も片っ端から断ってしまいます。

ここでは父と娘の絆(きずな)は強く、しかも母親が存在しないと言う事は姫にとって母性が欠如している事を示しています。
このような時、彼女は父親との絆を断ち切って誰かと結婚し、自分が子供を生み母となる事などとうてい考えられないのです。
しかし、ある「時」が来たとき、娘は父親に代わる新しいアニムス像を見出して、父から離れて行かなくてはなりません。

王は父としての義務を果たそうとして姫の為に宴会を開きます。 ところが、姫の傲慢は集まった男性達を寄せ付けません。 それ所か彼女は1人1人にケチを付けて行きます。
「酒樽さん」「ノッポでふらふら腰砕けさん」「ずんぐりむっくり不恰好さん」など彼女の言葉は辛辣きわまりありません。
とりわけ姫が物笑いの種にしたのは、かなり上座にいたある善良な王子様でこの人は顎がちょいと曲がっていました。 「どうでしょうあの顎、まるでツグミの口ばしみたい」と姫は笑い飛ばしたのです。
この時からと言うもの「ツグミのヒゲ」と言う名がこの王子様に冠せられました。 結局全ての求婚者を拒否してしまった時、王は「かっ」となりました。
「よろしい、それならこの次、戸口に現れる最初の乞食をお前の婿にしてやるぞ!」と言うのでした。 そして、最愛の娘を実際に乞食に手渡してしまったのでした。

人は美人と言うだけで集まってきます。その時、美貌と言う事を自分と同一視してしまう人は、自分自身の価値がある為に人々が 集まって来るのだと思ってしまい、その女性は傲慢にならざるを得ません。
この場合、姫は父の元に逃げ帰るどころか、彼女のアニムスの成長の為最もふさわしい人(乞食)を夫として迎えたのでした。
全ての求婚者を切り捨てる「強い切断の力」の背後には王なる父が存在し、父によって彼女はそのアニムスを形作って来たのでした。
アニムスは女性の中の男性像の元型です。 ユングは「アニマは男性にムードをかもし出させ、アニムスは女性に意見を主張させる」と述べています。
アニムスは強い切断の力を持ち、これはわが子をいつまでも包み込んで抱きかかえようとする母親と対照的な関係にあるのです。

王の命令によって乞食と結婚させられた姫は住みなれた城を出て行く事になります。 彼女は自分の行為を嘆きます、「私も本当にかわいそう!あいつにしておきゃよかったわ」。

求婚者を切り捨てた結果彼女は、王宮から切り離され孤独を味わう事になるのです。
しかし、アニムスは女性を苦難を通じてより高い自我へと引き上げてくれます。
この段階では常に現状に満足できず「ああすれば良かった、こうすれば良かった」と反省しているように見えますが、 本当の反省で無い事に、自分自身が責任を持って生き方を変えようとはしません。

乞食は姫に「火おこし」や「料理」する事、更には「籠編み」や「糸つむぎ」を要求しますが、彼女は全く役に立ちません。 それを見た乞食は「こいつ!からきしものの役に立たねえんだなあ」と浴びせかけます。
無能さを知らされた姫は今度は壷や皿小鉢を市場で売る仕事をあてがわれます。 今度は彼女の美しさが役立って上手くお金を稼ぐことができました。

こうして姫は一段階成長して行きます。姫はアニムスの命じるままに母性的な仕事に手を出して行くのです。

アニムスを真に発展させようとする人は母性を発展させなくてはなりません、これは相補的な関係があるのです。

こうして二人はやっと安定したささやかな生活を送れるようになりました。
そんなある日、突然何処からともなく酔っ払った騎馬兵が市場になだれ込んで来て、壷や皿小鉢を踏みつぶしてしまったのです。 職を無くした姫に、こんどは乞食が台所女中の仕事を見つけ出してきます。
そこで今度は、料理の手伝いをしたり、つらい下働きにこき使われたりします。 姫は両脇の隠し袋に小さな壷をしっかりとくくりつけておいて、ご馳走の残りを分けてもらい壷に入れて持ち帰り二人で食べていました。

突然の騎馬兵の出現はアニムスの突然の侵入の凄まじさを見事に具現化しています。
つかの間の幸福を破壊するのがアニムスであれば、そのような彼女を慰め叱り次の仕事を見つけ出すのもアニムスでした。
彼らは姫の心の中の元型(アニムス)の現れであり実は同一だったのです。 姫は失敗を繰り返しながら、くじける事無く新しい仕事に向かっていきます。
この段階では、火もおこせなかった時に比べると随分と強くなっています。

ある日、王様の総領の王子様のご婚礼の祝いの場に、あわれな下働きの女も御殿へのぼらせて頂き、見学させてもらう事となりました。
そこへ王子さまが入って来ました、その王子は他でもない、かつての姫への求婚者で自分が、からかって断った「ツグミのヒゲ」の王子様だったのです。
その王子は戸口の隅にたたずむ哀れな姫を見つけると一緒に踊るのだと広間へ引っ張り込みました。 その拍子に、隠し袋の紐が解け例の壷が転がり、中につめていた残り物のご馳走がぶちまけられてしまいます。人々はそれを見てあざけり笑います。 もう恥ずかしいの何の、姫は一目散に逃げ出そうとしますが、その王子に引き止められてしまいます。
そして優しく語り掛けました「怖がるでない、お前と一緒に暮らしていた乞食はこの私なんだよ、お前を愛するが故のお芝居で、 壷をめちゃめちゃにした騎馬兵も実はこの私なのだよ。全てはお前の高慢チキの鼻をへし折り、私を馬鹿にした驕(おご)りを戒める為に たくらんだ事なのだよ」。
姫はそれを聞き、涙して心より反省します。 そして二人は結婚の祝いを上げるのでした。

かつて王子を笑いものにした時と、今回の笑いは見事な重複を見せています。
恥ずかしい思いをした笑いの渦は彼女を乞食の妻から王妃へと反転させるものでした。
この物語を通じてアニムスは父である王様、乞食、騎馬兵、ツグミのヒゲの王子と色々な人物に姿を変えて現れます。
最後の結婚ではアニマ・アニムスの問題を様々な外界に投影して生きた後、最終的にそれを自分の心の内界の事として知り、 男性性と女性性の統合を通して自己実現・自己成長する事を暗に示しているのです。

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シャドウ

グリム童話「実意ありフェレナンドと実意なしフェレナンド」では、主人公は実意ありフェレナンドです。 この二人のフェレナンドの性格は名前からして明らかですが、

片方は正直で誠実であるのに対し、片方は悪巧みをして、なんでも嗅ぎ付ける人です。
この二人が王様に仕え、実意ありフェレナンドの方は実意なしフェレナンドの為に何度も窮地に追い込まれますが、 それを見事に切り抜けて最後は王妃と結婚して王様になる。

というお話です。 二人兄弟がこのような対比を持って語られる昔話は全世界に渡って存在していますが、古くは紀元前12世紀のエジプトに 存在していた事が明らかになっています。
その物語では、兄の名が「真実」、弟の名が「嘘」と言うのですから二人の性格の対比は明白です。 このような二人兄弟の物語が古くから存在していると言う事実はこのテーマがいかに人間の心のあり方と深く結びついているか、を示すものであると考えられます。
人間は「類は友を呼ぶ」と言いますが、逆に相反する者同士も、とかく一緒になるものです。案外、性格の相反するもの同士が素晴らしい カップルになっていたりするものです。
このような現象を説明する為ユングは、人間の心に働く相補性の原理の存在を主張しました。相反するものが互いに補い合って1つの全体性を 作り上げる傾向が人間の心の中に存在すると言うのです。
人間の心の相補性は二人の人間の間よりも、まず一人の人間の心の中に働きます。 人間の意識的な態度が一面的になるとき、それを補うような傾向が無意識の中に形成されるのです。
例えば、気が弱く自己主張の出来ない人が、酒に酔った時だけ急に思いがけない強い事を言ったりするのは、その人の無意識内に形成されていた 意識に反する傾向が飲酒によって自我の統制が弱くなった時に表面に出てきたものと考えられます。
このような現象に注目して夢分析を行っていたユングは、多くの人の夢の中にその人が否定したり拒否している傾向を持った人物がよく現れる 事に気付いたのです。
そして、ある個人の自我が否定し、受け入れがたいとする傾向の全てを、その人の「シャドウ(影)」と名付けたのです。 全ての人は自分の無意識の中に、自身のシャドウ(影)を持っているのです。
シャドウと言うものは相対的な物であって、善とか悪とか判断する ものではありません。 ユングはシャドウにも個人的なシャドウ(影)と人類普遍的なシャドウ(影)があると考えました。
ある個人にとって、その反対にあたる性質 として個人的シャドウが存在する一方、普遍的なシャドウは万人共通なものとして、全ての人に受け入れがたい「悪」と同義の事になってくるのです。
昔話においてこのような普遍的なシャドウは悪魔などの姿をとって現れて来ます。
更にユングは「生きている物は塑像(そぞう)として見えるためには深いシャドウ(影)を必要する、シャドウ(影)が無くてはそれは平板な 幻影に過ぎない」と述べています。
つまり影は厄介なものではあるが、それなくしては人間味の乏しいものになってしまうというのです。
「実意ありフェレナンドと実意なしフェレナンド」の場合、誠実なフェレナンドが主人公で、悪巧みのフェレナンドは主人公の暗い半面 (シャドウ・影)を表しているのです。
つまり一人の主人公の内面を二人に分けて各々を擬人化したとも取れるのです。 無意識内にある自身の影の存在を自覚(意識化)し、それと対決する事で影を克服した時に主人公は成長し王妃との結婚、さらに王様へと 話しが進展するのです。

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トリックスター

トリックスターとは、多くの神話や伝説などの中で活躍するいたずら者、ペテン師であります。
わが国においては彦市とか吉四六(きっちょむ)とか言われる主人公のお話がこれに当ります。
次のような物語があります。

きっちょむさん 大作は山で仏法僧(ぶっぽうそう)の鳴く声が聞こえると言いふらしました。
そこで殿様は、是非その声を聞きたいと言い山までの立派な道を作らせます。 そして殿様が山に行ってみると、「クククク」と鳴くばかりです。
大作を呼び出して聞いてみると、「クククク」と鳴くのが仏法僧だと思っていたと答えるので、「あれは山鳩じゃ」とひどく叱られたのです。
しかしこのおかげで立派な山道が出来ました。

この話でまず気付くのは、主人公大作のいたずら(トリック)です。
仏法僧の声が聞こえると殿様をだました上、「クククク」と鳴くのが仏法僧であると思っていた、と上手く言い逃れをしているのです。
このような奇策を用いるのがトリックスターの特徴であり、だまされる相手となるのは、殿様、庄屋、代官などが多いのも特徴です。トリックを用いて権威に反抗し、時には極端な上下の転倒をもたらすのです。
この話では、大作(トリックスター)が殿様を意のままに動かしていると言う事が出来ます。 そしてその結果、新しい道が建設される、つまり、新しい建設や結合などがもたらされたのです。
しかし、ここで大作に対する殿様の怒りが大きい時は彼は死刑にならぬとも限りません、こうした意味でトリックスターは常に危険にもさらされているのです。
トリックスターは道徳的な善悪に囚われていません。 ですから単なる「いたずら好きの破壊者」である反面、「新しい秩序や建設をもたらす英雄的存在」にも成り得るのです。
そしてその創造には必ず危険が伴うのです。危険を伴わない創造はあり得無いのです。
ユングはトリックスターについて「その騙し癖、時に陽気に、時に悪意のあるいたずら好み、変身する能力、半神半獣の二面性、 あらゆる拷問にさらされる者としての存在、そして、決して軽んずる事が出来ないものとして、救世主の像との近似が見られる」と述べています。
私達も無意識の中に道徳的善悪に囚われないトリックスターを持っているならば、我々が新しい創造活動を遂げようとする時、 トリックスターの作用に身をゆだねるのも大切なのかも知れません。

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セルフ

「三枚の鳥の羽」

王様と三人の息子がいました。上の二人は賢く、一番下はポカンとしていて「でくの坊」と呼ばれていました。
年老いた王は息子達に「出かけて行って一番立派な絨毯を持ってきた者に王位を継がせる、イザコザなど起さぬように 城の前で鳥の羽を三枚飛ばし各々が飛んで行った方へ行きなさい」と言いました。
二枚は各々東と西の方に飛んで行きましたが 三枚目はそのまま地面に落ちてしまいました。
二人の兄さんは各々、東・西に進みましたが、「でくの坊」はそのままそこに釘付けになってしまったのです。

旅の方向を決定するものとして鳥の羽が使われています。
「鳥」は無意識の世界の象徴します。王は旅の方向を自我で考えた意思で決めるのではなく、羽の動き(無意識)にゆだねたのです。
自我は人間の意識の中心ですが、自我が心全体の中であまりにも分離した存在となって来ると人間はこの大自然から切り離された存在になってしまいます。
独立した自我を抑え無意識からの閃き(羽の動き)に身をゆだねた時、しばしば偶然(無意識の世界では当然の事が、 自我から見ると偶然と思える)やシンクロニシティーというものが起こってくるのです。
そして、「でくの坊」や「愚か者」と言われる「無為の人」がその状態に最も近い最短距離にいたのです。

「でくの坊」はその場に座り込んでしょんぼりしていると、羽のそばに蓋があるのに気付きます。それを持ち上げると地下に至る階段があり、 その階段を降りて行くのでした。

これは無意識の世界へ入ってゆく事を象徴しています。無意識の世界は「地下」と表される事もあれば、「深い森」や「海」などに 象徴される事もあります。 いずれにせよ非日常の世界へと入り込んでゆくのであります。

そこで太ったヒキガエルに出会います。 そしてこう聞いてきたのです、「何が欲しいのですか?」と。
でくの坊は「一番綺麗で一番立派な絨毯が欲しい!」と答えます。
すると、ヒキガエルは地上の世界では誰も織れっこないような綺麗で立派な絨毯を与えてくれたのです。

神話においてはヒキガエルは女性的な要素を示す事が多いと言われています。
地上の国では男性のみの構成となっている事から考えて 、この地下の世界のヒキガエルは女性的な要素を持って補償的に存在している事が推察されるのです。
さらに、絨毯は大地に根ざした物で母性の象徴でもあるのです。

この美しい絨毯を持ち帰った「でくの坊」に王は王位を譲ろうとした所、二人の兄はやいのやいの責めたてました。
「あんなでくの坊にどうして王様が勤められるものですか、おつむは空っぽなのに!」 そして、もう1つ別の条件を出してくれるようにせがんだのです。
そこで王様は今度は「一番素晴らしい指輪」を持って来た者に王位を譲ろうと言いました。
今度もまた同じように鳥の羽を ふうっ〜と吹き飛ばして各々の方向へ赴かせました。
またまた羽は前回と同じように落ちたのです。
こうして「でくの坊」はまたヒキガエルから地上の職人では作れないような宝石が散りばめられた素晴らしい細工の指輪を貰って帰るのでした。

指輪はその円環性によって自己の象徴であると共に、「結合と拘束」を表しています。
結婚と言う事は対立物の合一であり1つの円環を作るものです。 結婚指輪の風習はそれを端的に示しているのです。

この時もまた、二人の兄達がやいのやいの文句をつけ、王から別の条件を引き出しました。
今度は一番美しいお嫁さんを 連れて帰る事が要求されます。
「でくの坊」はまたヒキガエルの所に行きました。 太ったヒキガエルは、そばにいたチビさんヒキガエルを摘みだすと途端にそれはそれは綺麗なお姫様に早変わりしてしまったのです。
彼は喜んで地上の世界へ戻って行きます。

ここで、女性的要素をもっているヒキガエルが美しい姫(アニマ像)を示していた事が明らかにされます。

しかしまだ兄達は納得がいきません。
そこで今度は広間の真ん中に輪をぶら下げてその輪を跳びぬけられるお嫁さんを連れてきた ものが一番だと主張しました。 これなら兄達は自分達の連れてきた百姓女ならがっちりしているから出来るけれど、「でくの坊」が連れてきた、かよわい姫様には出来ないだろうと考えたのでした。
ところが、実際は百姓女は輪を跳びぬけた後、不器用にも手足を折ってしまいます。
一方、姫様は雌鹿のように、いとも軽々と跳びぬけたのです。
こうして、とうとう「でくの坊」に王冠が授けられ末永く立派に国を治めたとさ。

「あれやこれや」と言う判断は既存の価値判断によって決められる物です。
しかし既存の価値判断を超えた無意識の声に従う時、自己実現への創造的行為となるのです。
ユングは自己実現の過程を個性化(Individuation)の過程と捉えました。 つまり意識と無意識の相互作用の中で「個人」が作られて行くと言うのです。
その過程の中で昔話の主人公達はしばしば、そうとうな危険に出くわして行きます。 一見不幸に見える事がかえって幸福の種になったり、上手くかわしたりしながら、話の結末では主人公の願いが達成されるのです。
しかし、これはあくまで自己実現の「過程」であって、「成就」では無いのです。
1つの段階の成就の次にはまた次の段階が待っているのですから。 自己実現とは、そう言う「ゴール」が存在するのではなく、正にそのプロセスにあるのではないでしょうか。
こうして改めて、違う視線で色々な昔話を読み返してみると、子供の頃親しんだ物とはまた違った味わいがあるものですね。
【参考図書】昔話の深層:河合隼雄/講談社

ユングの昔話研究意識と無意識元型(archetype)母親離れオールドワイズマン(老賢人)
アニマアニムスシャドウトリックスターセルフ